叔父が早世した為、山形で葬式をしてきました。
長井では生憎の涙雨。うすら寒く、それだけに余計、気持ちを暗くさせました。
叔父の死も、大っぴらに話せる内容ではありません。密葬にした理由のひとつです。私も同じ病を抱え、その病でこの世を去りました。他の人には解せない悲しみを抱えています。
とにかく、葬儀などの関係で慌しかっただけに、沈んでいる私だけが浮いているようでした。
死は覚悟してはいましたが、頭の中で理解していても、心の底では激しく動揺していました。お墓に納骨した後、涙がとめどなく溢れました。悔しくて切なくて、どうしようもない感情が噴き出したのです。
生前、自分に何ができたか、なんて事は考えません。私も叔父も、それなりに生きていただけです。
ただ、その死は衝動的でした。
自殺したがる人は、勇気があるから死のうとするのではなく、衝動に打ち負けて死んでしまうのです。それを世迷うような綺麗ごとや、痛々しい自分の物語にしてしまうのは、実に恥ずかしい事だと、私は思います。
もし「死にたい」と言っている人があなたの周りにいるとして、その人が注目を浴びたいが為に言うのか、本当にそう言うしかないのか、私のような他人はもちろん、当の本人でも見抜けないだろうと思います。
あなたが、「死にたい」と洩らす人とその瞬間に出会ったら、お願いしたい事があります。
「死んではいけない」、そう強く言ってあげて下さい。
なぜ、死んではいけないのかと、必ず理由を尋ねられます。答えは一絡げにあるものではありませんが、もし私が両者の立場になって口にするとしたら、こう言います。
「生きているから意味がある」、そう強く言いたいと思います。
この世に、死んで幸せになれる人はいません。それはあの世がどうと言うことではなく、死んだ人の幸せは、生きている我々には知る由がないからです。
死の衝動に言葉はありません。死の衝動が人に言葉を語らせるのです。それは理由が後から来るという、とても理不尽なことです。だからこそ、死の手前にあなたが強く発した言葉は、その心にきっと残るはずです。
少し昔、自分自身がそうだったからです。
長井では5月に入っても、桜が満開でした。桜よりも遅く、梅が花を咲かそうとしていました。
その人は、それなりの樹に相応しい花を咲かせます。それぞれで一本の樹です。心に病を持ったふたりの人間には、何かが違っていたとは思えません。ただ、私は自分であり、叔父は彼自身だっただけのことです。だからこそ、まだ生きていたいと思いました。
週末頃には3~5分咲きだった桜が、週明けには満開になっていました。
最近は春の陽気に恵まれ、一気に咲き誇ったようです。ただ、今日はあいにくの雨風。昨日にようやく見たばかりの満開の桜が、今日の天候で流れ落ちてしまうと観測が。
仙台は毎年、桜が咲くと花冷えの天候が多くなります。花見のシーズンが訪れると、強風や雨風の影響で桜祭りのタイミングに悩みます。会社のスケジュールを鑑みない桜のマイペースぶりは、花見をリスケジューリングする人々にとって、ゲリラ的な強行開催を余儀なくさせます。
今年の桜前線のニュースほど、話題に上らなかった年はありません。私のまわりでも、花見の話を楽しみにしている方が、あまり見られないように感じます。震災以降、桜の開花に気づけないほど、人の心が疲れているのでしょうか。
今に散ってしまう事はわかりますが、せめて花冷えするこの時期、桜の花が少しでも生きて、桜を見上げた人の心をホッとさせてほしいと思います。
初めまして、天女楽太郎と申します。
東日本大震災で被災され、ご不幸に見舞われた方々。
また、今もなお復旧を待ち、不安の中で過ごしている皆様。
本当に心よりお見舞い申し上げます。
私も仙台で被災しました。
避難所を転々として、ようやく自分の足で戻れました。
避難生活をしている間、多くの方と、様々な話をしました。
そこで思い知ったことがあります。
私は一命を取り留めたこと、それだけで他の方々と変わらない。
今こうして寒い夜を過ごし、恐怖や不安を感じて過ごしています。
ただ、より強く感じるのは、あの人は何を感じて、どうして過ごしているのだろう。
もし私にできるなら、すぐに言葉をかけて、傍で守りぬきたい。
自分には何の力があるのか、それは分かりません。
ただ、大切な人に思いを伝えたい。いや、せめて人に伝わるならそれでいい。
私が人に、思いを伝えられる方法があるとするなら。
物語を紡ぐこと、絵を織ること、詩を編むこと、それだけです。
せめて私の作った文章で、多くの人の気持ちを、大切な人の心を、少しでも癒やすことができたら。
私はただ、そう願っています。
このサイトにお越し下さった皆様。
本当にありがとうございます。
そして、どうぞご愛顧ください。
これからも、よろしくお願い致します。
天女楽太郎